マウンテンミー(山と私)が血肉を蹴散らしながら右往左往する話

京都のドンバ、マウンテンミーの日常と非日常をお送りします。

「友だち」のしきい値は低ければ低いほど良いという話と大人になっても新しい友だちはできるよ、って話

現在、21時。

外に出て煙草吸ってたら、カラスの声が聞こえた。

夜に聞くのは初めてな気がした。

カラスのことを考えてたらウルスラのことを思い出すのは世代なのかしら。

ウルスラって、劇中では呼ばれたことない設定名って、あとで聞いたけどほんとかね。

 

また似たような話になるのがあれだけど、中高と友だちがいなかった反動で、京都に出てきてからというもの、「友だち」に求めるものが多かったように思う。

端的に言えば「親友」を求めていた、というか。

ものすごく相手からのことコミットを求めていたし、相手に深く関わろうとしていた。それが誇らしくもあったし。

誰に向けての誇らしさかというと、中高のときの友人がいなかった自分であり、そういう自分を馬鹿にしてた(と、勝手に私が思っていた)同級生たちであり。

でもまあ、恋人でも家族でも同じなんだけど、それを繰り返していると、深く関わろうとする関係を続けると、共依存になって、お互いに駄目になる。あるいは、私はこんなに関わりたいのに、みたいなめちゃくちゃ歪で気持ち悪いことになってくる。

 

ここ数年、久しぶりに再会する友人とあははと笑いながら飲むことが増えた。

中には何年も会ってないし連絡を取っていなかった人もいた。

んでも、また、しょうもない話で笑えてた。

そういうのを通して、「友だちって、これくらいの距離感でいいんだ」ってのがようやくわかった気がする。

友だちだけじゃなく人間関係全般。

別に、人と深く関わりたくないとか、そういう話じゃなくて、深く関わるタイミングもあれば疎遠になるタイミングもあるけど、どうせお互い気にしあってるなら、いつかは会えるし、会ったら楽しく過ごせばいいだけなんだって。

 

「大人になったら友だちとか新しくできんのだろな」と、薄ぼんやり考えてたけど、たまたま身を置いている環境のお陰でかまったくそんなことはない。

だから、てのもあるけど、(それがいいのかは別として)古い関係に固執せずに済むようになった。

逆説的に、そうしたら古い友だちともゆっくり、楽しく過ごせるようになった。

仏教じゃないけど、執着は不幸の根源なんだな、と思う。※もちろん、それが良く働くときもあるけどね。

 

長い関係とか、確かめられる関係とか、寂しがりなので求めがちだけど、昨日、今日、明日くらいのペースで関わっていけば、いろんな思い込みから解放されて楽しくやっていけるんだな、と思ったよ。

思ったより人生は長いし、大人の人には(まあ、私が充分大人の年齢なのは知ってるけど)怒られるかもだけど、刹那的に生きてりゃ、それで楽しけりゃ、それが全部なんだなと思う。

 

「親友」「家族」「結婚」「恋人」という呪いから自由になるのも、自分次第だ。